あいちトリエンナーレ2019と想像と記憶

 

 

あいちトリエンナーレ2019に行ってきた。

このエントリーは、その記録。

 

地元、愛知で初めて行く。

きっかけは、サカナクション

決め手は、円頓寺商店街と、津田大介さん。

 

 

他を想像しているか

今回のトリエンナーレで感じたことはそれに尽きる。

最初に観たのが、「その後を、想像する」

情報が溢れている時代に、すぐ答えをみたがってしまう。

予定調和の結末なのか。

どうなるか、どうなったのか。

調べてもわからないことはいくらでもあって

想像するしかない。それなのに、その想像を怠っていないか。

 

 

60分間微笑みながら立ち続ける人たちの映像があった。

あの人たちは、どういう状況にいるんだろう。

辛くないのかな。

でも答えは用意されていない。

ただ、映像だけが流され続けられる。

 

 

最新のテクノロジーやそれを使う権力

その事実に、無関心を装う人たちへの警鐘。

地球環境への負担、ナショナリティ…

 

今回のトリエンナーレには見たくもない情報が満ちている。

「美術館は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いて、言いたいことを言うための場所ではない」というキャプション(解説?メッセージ?)があって、

他の存在の想像を促され、時には「世の中に存在している、何か見えづらくなっているものが可視化」されることによって、無理やり泣かされるかもしれない。

情報の波にのまれ、すでに形成された強固なバイアスによって物事を判断し、簡単に、

そして新たな(余計な)情報を一個人が生成して流通させてしまう世の中。

これも情の時代。

 

 

 

円頓寺商店街と昔の記憶

そして、円頓寺商店街へ向かう。

寄り道して、錦にあったおじいちゃんのお店の跡地へ。

おじいちゃんのお店の跡形は既にないが、向かえにあった鰻屋さんの建物の面影はまだあった、気がする。

川の近くだからか木材屋さんが多く、木の香りが昔の記憶を呼び覚ます、なんとなく。おじいちゃんちの匂い。

多分、木。

せっかくだから昔おじいちゃんに連れられた、泥江縣神社へ向かう。

神社は開いていなかったけど、懐かしい記憶。

こんな街中にあったんだ、という歳を重ねたからこその発見。

円頓寺商店街は通って歩いただけだが、ここもなんだか懐かしい匂いがした。

これもまた、情の時代。

 

 

サカナクションと暗闇

今回の一番のきっかけは、サカナクション。

大学時代からサカナクションを推す友達が多く、ずっと気になっていて

2019年6月に名古屋で行われたライブに行ってドチャクソ感動した。

んで、トリエンナーレにも参加されるということで即チケット申し込んだら、当選。

最近、つくづく運がいい。

 

暗闇。

いつから暗闇を恐れなくなったんだろう。

情報はないはずなのに、逆にいろんな想像が掻き立てられる。

誰かのささやき、鼻をすする音、服の擦れる音、匂い、響き。

本当にサカナクションは演奏をしているのか、山口さんは歌っているのか。

ほとんど暗闇で、彼ら彼女らの姿を目視することはできない。

どんな音なのか、どんな気持ちなのか想像しながら聴くしかない。

「音は立体である。

しかし、視覚はそれを見えないようにする霧だ。」

フィナーレの演出、

これからサカナクションはどこへ向かうんだろう。

これを体験して、僕はどこへ向かうんだろう。

心は動いた。身体は動くのか。

 

 

 

最後に

「表現の不自由展・その後」によって

今までにないくらいメディアに取り上げられ、バズったトリエンナーレだけれども

行ってよかったと思える芸術祭でした。

津田大介さん、関係者さん、ありがとうございました。

 

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